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人生格言集
福沢桃介(1868〜1938年)

 「希代の相場師、福沢桃介」、「明治期の天才相場師、福沢桃介」、「病床の相場師、福沢桃介」、「相場師から電力王」などさまざまな形容をもつ福沢桃介について述べてみます。私見が含まれますので参考程度にしていただければ幸いです。
福沢桃介の経歴
桃介の経歴と経済の系譜を示します。
1868年(明治元年)
福沢桃介、埼玉県の農家岩崎家の次男として生まれる
1869年(明治2年)
渋沢栄一が日本初の株式会社、商法会所を創立。
1874年(明治6年)
福沢諭吉が複式簿記の米国商業学校用簿記教科書を翻訳した 「帳合之法」」(ちょうあいのほう) を出版。
1878年(明治11年)
大阪株式取引所が創立。
1883年(明治16年)
福沢桃介、慶応義塾に入学
1887年(明治20年)
福沢桃介、福沢家の養子となる
1894年(明治27年)
福沢桃介(26歳)、肺結核で療養生活に入る。
日清戦争1894年(明治27年)8月〜1895年(明治28年)3月
1895年(明治28年)
福沢桃介(27歳)、戦勝相場で巨額の財をなす。
1897年(明治30年)
福沢桃介、株嫌いの諭吉に気遣ううちに以前の儲けが半減。
日露戦争1904年(明治37年)2月〜1905年(明治38年)9月
1905年(明治38年)
福沢桃介(37歳)、株式の暴騰が続きの中、早めに全株を売り切り、実業家への転進を図る。
1907年 (明治40年)
大阪株式取引所株、年初の774円から年末には92円も暴落。
福沢桃介、相場から手をひく。福博電気軌道の社長に就任。日清紡績設立。
1912年(明治45年)
福沢桃介、千葉県から代議士になる。(大正3年まで)
1914年(大正3年)
福沢桃介、名古屋電燈株式会社社長となる
第1次世界大戦が勃発。
1918年(大正7年)
第1次世界大戦は終結。土地投機・株式投機が発生し、物価は高騰。
1919年(大正8年)
投機が過熱
1920年(大正9年)
株式市場が大暴落
1938年(昭和13年)
福沢桃介、70歳で没

投資実績
 明治28年、福沢桃介は日清戦争で低迷していた相場が遼東半島の中国返還で終わりをみて、公定歩合が3厘さげられ「戦勝相場」によって上昇気流に入ったとみるや、当時のお金で、貯金額3000円(3000万円)のうち、1000円(1000万円)を投資資金にあて、1000円=今の1000万円くらいをつぎ込み、信用買いを行い、株式初挑戦にて、1年で10万円(今の10億円)に資産を増やしました。これは100倍で初挑戦としては脅威の結果をのこしました。日清戦争の戦勝相場の後は、一切、株から手を引きました。その時期に株成金になった人はその後の日露戦争に向かう下げ相場で文無しになった人が大勢いたそうです。
 しかし、福沢桃介氏は軍事国債などが発行されていた当時の相場には目を向けず、 事業を起こしたとされます。そして、再び、日露戦争後の戦勝相場でもう一回だけ参戦し、250万円(現在の250億円くらい)を手にして、その後、電力会社を起こし、現在の中部電力の母体となる企業を起こしたとされます。
 以上が一般的な実績の説明ですが、調べますとチョット違うようです。
 株だけでみると途中で半減しましたが、1000円から10万円、そして250万円と2500倍になっています。明治40年には相場から手を引いたようです。それまでは、会社設立で上場の創業者利益で、大儲けしたようです。
 大正7年、第1次世界大戦の株式ブームでも一切株取引しませんでした。

金持ちになるために株取引は必要不可欠
 
福沢桃介の戦略には、常に時代の最先端の知識・情報を活用することです。
 慶応在学中、導入されてまもない簿記の知識を有していたと思われます。わが国に株式会社が創立され間もないころに、銘柄は決算が重要だと述べています。
 福沢家の婿養子に入る見返りにアメリカ留学を行っています。このころからアメリカの大富豪の富の築き方を研究して、株で成功しようと思っていたのでしょう。

桃介の言葉です。
「ロックフェラーは、人は石油でもうけたというけれども、じつに彼の財産は石油株が騰貴したためにできたのである。すなわち株で勝ったのである。グルードもそのとおりである。その他現在アメリカの富豪といわれているもので、株でもうけたのでないものは一人もないといってよろしいくらいで、商売でもうけたものはいたって少数である。」
 
 現在のトヨタ自動車でさえ、本業の儲けも素晴らしいが、株式という仕組みがあるからこそ何十倍、何百倍、何千倍にも企業価値が高まります。
 桃介は個人であろうと、企業であろうと株が富を築く
原理を見抜いていたようです。そして、金持ちになるためには、株式取引が必要であると述べています。

銘柄(決算)とタイミング(景気)がすべて
 株は富を生むことを発見した桃介は、病床の中で本格的な実践のための研究をしました。
 もと兜町の株屋が部下いたので、この男に相場のやり方、秘訣を喋らせました。さらに社内の株式係に同じことをたずねたりして勉強しました。参考書も取寄せ、過去の相場の高低を示す罫線表もつくり丹念に検討しました。
 株価の高低、会社の内容、重役の人柄、日々発生する内外時事の影響、市場人気の消長とその表裏に関する機微の動きなど、あらゆる情報を入手して真剣に検討し、結論が出ると果敢に勝負しました。
 グレアムも驚いてしましますが、株を行うには金融金利を標準に行いなさいといっています。

「諸君が金持ちにならんとして、株の売買をせぬのはウソだ。しかし株式の売買について、ここにひとつ諸君に注意しておかなければならぬものがある。余人はともあれ、諸君が株の売買をするには利子を標準とすることを希望する。具体的に言えば、定期預金の利子はつねに五分より七分の間を往来している。五分以下となり、七分以上となったことはまず近来においてない。市中の金融が大緩慢で貸付日日歩が1銭6厘以下に下落したときでも、預金の利子は五分であった。また金融が大逼迫で貸付日歩が3銭、4銭に上がったときでも、預金の利子は7分より上がらなかった。この
預金の利子を標準として売買することだ。」
 配当利回りが、定期預金利子より上回れば、「買い」、下回れば「売り」だという事です。
 財務状態がよい銘柄を薦めています。
「この株は安全か否かということを考えなければならぬ。郵船、鐘紡、炭鉱、東鉄というような、なるべく基礎の強固なものを選び、基礎の薄弱なものはやらぬがよい。たとえ一時配当が多くとも、基礎の薄弱な会社は、会社全体がつぶれてしまえば大損になる。比較的強固だと思っても、なお不安だと思ったら、金を銀行に預けて寝ておればよい。」

「金を使う程度」すなわち、投資金額についても述べている。
「これは諸君の各自によって定まる問題であるから、具体的にこれこれというわけには行かぬが、要するに、これに全力をあげてはいかぬ。借金してかかるのはもちろんいかぬ」「日露戦争後において株式の売買に失敗し、事業で倒れたものの多くは銀行から金を借りた人である。」

投資のタイミングの重要性についても述べています。
「株価の変動には何らの法則もないように見えるが、実は不変の真理がある。その
真理とは景気の変動だ。景気と株価について検討すべきである。」
「少なくとも相場で儲けようというのであれば、3年に1回の割合で到来する波に注意する必要がある。相場道に徹した真の投資家は、いわゆる大きな相場の波だけを注目している。何年かに一度しかやってこない好機を狙っているのだ。したがって相場師というものは大相場を見損なったらそれこそ問題である」
ことばを変えて述べています。
「相場というものは桃介如き微力でなかなか動くものではない。天下の大勢が動かしている。我々はその波をうまく泳げばよいのである。
順波(上げ相場)には乗り逆波(下げ相場)には逃げる。だから百戦百勝して傷つかないのである。」

 「
相場で勝つには間(ま)というものが大切である」と言っています。売り買いに間をいれポジションを整理し、戦略を練り直しなさいということでしょう。

桃介の投資ノウハウ
 損切りの重要性についても述べています。
「活殺自在ということが大切である。事情が変わったと思ったらグズグズしないで
損をしてもサッと相場から手を引くべきだ。投げ売りを上手にやって、男らしく再起の日を待つべきだ。男らしく進退を明らかにすること。これこそ相場で勝つ最大のコツだ」
 彼の言葉に「ミミズも雲を得れば龍になる」というのがあります。低位銘柄も景気しだいで大化することを述べていると思われます。
 「腹八分目主義。買い思惑通りに相場が上昇しても
深追いはせず、天井圏に入ったと判断したら見切りよくすべての買い玉、手持ち株を売却する」
弟分の松永安左ェ門との会話です。
松永「横浜電鉄、どうしたの?」
桃介「無論、もうかった」
「どうして? 買い上げていったんでしょう」
「途中で売り逃げた。君はそうしなかったと手紙に書いていたね」
「だって、有望だってあなたがいったし。おかげで60万円、水の泡だ」
「バカだな。株はいつか下がるものだ。いつまでもにぎっておればいいなんてものじゃない」
松永の独り言です。
「(せっかくいっしょに買いはじめたんだ、売るときになぜ声をかけてくれなかったのか)」
「(そんな他力本願でどうする。相場は自分の判断でやるものだ。判断力もないくせに、相場に手を出すのがまちがいだ!)」

桃介は後に述べました。
「人間の成功に、運、鈍、根という三つの資格が数えられる。その中でも、事業経営に一番必要なものは根すなわち執着である。その反対に、
株式相場に執着はもっとも禁物だ。いつでも見切りよく転換することを心がけて、一度に全部をすくいとることをしてはいけない。シナの五祖禅師が『福不可受尽』といったのはこのことで、福をあまして八分に甘んじ、いさぎよく見切るところに転換の妙がある」

桃介の資産運用論
 「神武天皇即位の年から今日に至るまで2589年間、わずか1厘の年5朱の複利計算は、兆の兆倍のそのまた3134万8276兆倍と云う、ほとんど数え切れぬ金高になる。100円の資本で、一時は1000円、2000円と儲けても、その次に1000円、2000円の損をすれば何もならぬ。それよりも、5朱か6朱の薄利でも、必ず一定の利息の生むものに放資し、しばらくして利に利を積めば、苦労せずに自然に金持ちになれるのだ。さらば、サラリーマンでも、小商人でも、倹約して暮らしてその余金をもって株なり、土地なりに放資、その利に利を積んで富を作る道を忘れてはならぬ。だが、将来も株式や土地に放資して、これまで通りの利殖をあげ得るや否やは、大いに疑問だ。さりとて、公債社債も感心しない。私はむしろ読者諸君に、今後いかにすれば有利に積利し得るかを聞きたい。」

 株式だけでもダメ、不動産だけでもダメ、時流にあった最も有利な投資を選択しなさいと説いています。

    『富をなす要素は利に利を積むにあり』 福沢桃介


「金持ち父さん」の本家本元は福沢桃介
 当Webサイト管理人は、「金持ち父さん」という言葉は聞いたことがあります。
 福沢諭吉は独立独歩の三助事業論者ですが、株嫌いでした。諭吉の自主独立精神を広く解釈した桃介は、お金儲けとして株式を採用しています。そして経済的自由人であるべきだと説きます。今風で言えば「金持ち父さん」といえるでしょう。
 福沢桃介こそ、わが国に簿記や株式が導入されてまもない明治時代で経済的自由人をめざし、そして夢を叶えた「金持ち父さん」かもしれません。


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