田中平八
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天下の糸平 〜首吊り現場も相場の読みどころ!?

 19世紀最強の相場師といわれ、「天下の糸平」といわれていますが、本名は田中平八と言います。
 その活躍ぶりは明治時代の教科書になっています。何でもかんでも糸平の前には「さすが」いう枕詞がつきます。「さすが糸平」と言うように、やることなすことがとにかくすごいのです。墨田区の木母寺に伊藤博文が書いた、畳20枚と言われる巨大な「天下之糸平」の碑が建っています。

 子供の頃糸平は、伊那から名古屋に米を買いに行く途中、老人の首吊り自殺の現場に遭遇しました。その遺書を見ると「八十八歳になって身寄りもないので、この枝振りのいい松を選んで命を絶つ」と書いてありました。するとまだ十数歳の天下の糸平は、「八十八歳の米寿。米がぶら下がっているから米は売りだ」といって、主人には米を買って来いと言われたのに、名古屋に着いてから予定を変更して売り方にまわし、それが大当たりしてしまいます。「天下の糸平伝」は、世の中に数多く出ていますが、これは必ず出てくるエピソードのひとつです。子供の頃から天才的なところがあったのだということを物語っています。

 横浜で生糸とかドルを売買した後に、日本橋へ乗り込んできて、現在の東京証券取引所の設立に際しては、発起人になっています。当時の取引所は株式会社でしたので、株主でないと親分にはなれませんでした。兜町と蛎殻町と橋をまたいで二つの米の取引所があったのですが、両方の株を買い占めて、一つにまとめて、現在の蛎殻町の所に東京米商会所を作り、初代頭取を務めました。


略歴

天保5(1834)年、現在の長野県駒ケ根市赤穂に生まれる。

安政5(1858)年頃から信州と横浜の間を往復、生糸や藍玉の商売を始める。

文久3(1863)年、四日市で茶を積んで横浜に向かう途中、難破して全財産を失った。

慶応元(1865)年、横浜で「糸屋」を開業。生糸・為替相場で巨利を博し、「糸屋の平八」略して「糸平」と呼ばれるようになり、自らも「天下の糸平」と豪語した。

明治5(1872)年、横浜金穀相場会所の設立とともに頭取となる。

明治9年に東京に出て田中組(後の田中銀行)を創立。

明治11年東京株式取引所の設立と同時に大株主となる。

明治16年、東京米商会所(後の東京米穀取引所、現在の東京穀物商品取引所)の初代頭取に就任。肺を患い熱海に療養中、私財を投じて水道・電話線を架設する。

明治17年、50歳、横浜で没する。同24年、隅田川畔に伊藤博文の手になる「天下之糸平」の巨碑が完成。
田中平八
鍋島高明氏の著書を参照・引用させて頂きました。

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